昔からひとりが楽だった。
決して人間嫌い、などと言うわけではないけれど、他人が煩わしいのは事実だ。
何をしているの、昨日何をしていたの、何を食べているの、ねえこれどう思う?
疑問とそれに返答することはコミュニケーションの基礎である。同時に他人との関わりを完全に断ち切って現代を生きることは難しい。否、不可能だと言ってもいい。
それでも元就は家族以外の人間と接触するのが嫌だった。
面倒だ。
人の感情の機微にいちいち振り回されるのも、他人のせいで今日はこう、と決めた計画を崩されて、なおも笑顔で「いいよ」などと苛立ちを隠すのも。
そうしていつしか彼は上手く人を避けるようになった。
クラスメートや教師、近所の人、親や兄の身近な人々。彼らとは最低限、礼儀を踏まえた関係のみを築いておけばいい。
遊ぼう、と誘われて三回に一回は仕方なく乗った。
何故なら、いじめや疎外の対象にされるのはさらなる面倒を増やすからだ。分かりやすい例で言えば、「はい、じゃあ二人組を作ってー」というアレである。ひとり取り残されるのはみじめだし、寂しい。
寂しい、という感情は知っている。
だから、寂しくならないよう、仲間外れにされないよう、かつ、煩わしいことのないよう。非常に上手く世間を流れるように生きている。
それが毛利元就という男だった。
「あの」
思わず元就は声を上げて立ち止まった。
普段なら御老人にバスで席を譲るときだって無言で立ち上がるし、横断歩道でおろおろしている御老人にはまだ出会ったことがないので、見知らぬ人間に自分から声をかける、という経験は皆無に等しい。
これがいわゆる初体験ってやつか。ふむ、我もひとつおとなになった。
そんな冷静なことをちょっぴり挙動不審のエッセンスを織り交ぜながら考えていると、声をかけられた当人がぴくりと肩を揺らして振り向いた。
「・・・・・・何か用かな若いの」
「・・・・・・それ」
それ、と指をさすのは、男が両手にぶら下げた大きな荷物である。
「ああ、いや別にそれを寄こせなどとは言っておらぬ」
「いや誰もそんな物騒な発想はせなんだが」
「そうか」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
見るからに怪しげな男だった。
背丈は同じくらいか少し元就より高いくらい。ただ少々猫背ぎみなのでよくは分からない。春だと言うのに焦げ茶のぶ厚いコートを着て、よれよれの帽子で顔を隠し気味なのは顔全体に包帯が巻かれているのが理由だろうか。間からのぞく目はどこまでも暗く、子供が見ればぎょっとして泣きだすかもしれない。一見不審者のようだが、彼の発した声は意外と渋くて穏やかだったし、何よりよろよろしながら大きなボストンバックを抱えるのを見れば思わず声もかけたくなるというものだ。
「ぬしは近所の子か」
「・・・・・・まあ、それなりに」
ふたりの隣りを引越しトラックが駆け抜けて行った。顔を上げると、トラックの行き先を見てああ乗せてもらえば良かった、と思ったがもう遅い。どうせ近所だし。
「実は久々に旅行から戻るところでな。大量の土産やら何やらを買ったのは良いが、ほれ見てのとおり我はこの体よ。どうにも足がよろけるわ」
「タクシーを呼ぶとか」
「所持金が尽きた」
「・・・・・・・・迎えは」
「学校だ」
おや、子供がいるのか。
意外そうに目を見開いて、元就は手を差し出す。
「持とう」
白い手をじっと見つめ、男は何事か考えていたが、やがて嬉しそうにヒッヒッと笑うとバッグを渡した。
「やれ、良い子よな」
「子供ではない」
もう大学生だぞ、と若干ぷんぷんしながら、のんびり歩く男の隣りに並んで歩調を合わせる。
「家は遠いのか」
「そうでもない」
このまま遅くなるのであれば、一度まつに連絡を入れておくべきだろう。
引っ越し当日に荷物だけ届いて本人が到着しないのはさすがに失礼すぎる。
そう思いつつ、何時何分になったら連絡を入れよう、などと考えていると何だか見慣れた景色が目の前に広がっていた。
ぴたり、と足を止める男が大きなその屋敷を仰ぐ。
「久しぶりよの」
「・・・・ちょっと待て」
「ん?」
大きく開かれた門の内側にはさきほど見た引越しトラック。車体にはでかでかとウサギさんマークだ。鉢巻きをしめて二本の足で立っている姿はとてもクールでキュートでシュールだった。目が笑ってない。怖い。
「おや新しい入居者が来たようだ」
「我だ」
「ん?」
僅かばかりの道中に気付いたことがある。
どうやら、ふたりきりではなかなか話が進まないようだ。突っ込み役が必要らしい。男はともかく元就の言葉が足りないのである。会話のキャッチボールをしようとして少々慣れぬコミュニケーションに動揺するせいだろうか。かといってどちらも困った、などと微塵も思わない程度には、まだ、相当の距離があるのだが。
「我がこのばさら荘の新しい入居者だ。毛利元就、四月から大学生になる」
「おおそれはメデタキナ。我はここの三階に住む大谷だ。同居人は今学校に行っておる高校生の男の子でな。年も近いゆえ、仲良くすると良かろう」
「・・・ずいぶん大きな子供がいるのだな、いや、別に詮索する気はない、いくつで子を作ったのかなど特に興味はない。ああ、いやいやよもや引き取った血の繋がらぬ・・・否、無礼な口を聞いたすまない。そなたが意外に年を食っているのだろう」
「あ?」
すまない、の後の暴言に大谷もびっくりである。
「あら、おふたりともご一緒でしたか」
冷え冷えとした空気が一瞬にして柔らかくなった。
「ねっみぃ・・・」
くぁあ、と大きなあくびをしながら、両腕に紙袋を抱えた元親はばさら荘へと向かっていた。引越しの準備もほとんど終わりあとは自分と、最低限生活に必要なので最後まで残っておいた電化製品などを移動すれば完了である。
四月を目前に控え、他にも新しい入居者が引越しにおおわらわだ。複数が重なると管理するまつたちも大変なので、日にちはずらしてある。今日はあの、毛利元就の入居日だ。すでにばさら荘の新たな一員としてちょこちょこ顔を出していた元親も、今夜は彼の新生活をのぞきに行くつもりだ。ただしまだ彼とまとも話したことは一度もない。元就は元親と違って、引っ越し前にあまりばさら荘へ顔を出すことはなかった。
「照れ屋なんだな!」
愛想はなさそうだが可愛いところあるじゃねーか、と勝手なことを言いながら足取りは軽い。
うきうきしながら歩いていると、背後からどたどたと走る足音がいくつも続いた。同時に怒鳴り声が響き渡る。
「くそ!これでは間に合わんではないか!!」
「お、落ちつくでござるよ三成殿!」
「あーめんどくせぇなんで俺まで」
一瞬のうちに目の前を通過していくのはやたら細長い少年だ。元親に似た銀色の髪は不思議な形をしている。人間にトサカが生えている。やけにおもしろい。アレに似た鳥をテレビで見たことがあるが名前が思い出せなかった。彼に続いたのは茶色の長い髪をひとつに縛り、ひらひらと赤い鉢巻きが翻る元気そうな少年だ。語尾にござるとは何とも時代錯誤でござる。最後にふたりを心底嫌そうに追いかけるのは黒の眼帯で右目を隠した少年だった。三人とも黒の学ランをそれぞれ適当に着こなしている。いまどきの若者、といった風だが変わっているのも事実だ。彼らは見る間に遠く走り去ってしまった。
「若者は元気だねぇ」
年寄りじみたことを呟いて、嘆息する。かつては俺もあんな風にピチピチでノリノリでキャッキャウフフしてたんだよ。年は取りたくないものだねえ、ばあさんや。
「ばあさんて誰だよ」
脳内で呟く自分に突っ込んでおいて、三人の若者を追いかけるように、元親もまた足を速めたのだった。
音もなく、背後に人の気配がしたとこに家康はそれほど驚かなかった。何故ならそれはよく知ったもので、ふわりと漂う潮の香りが誰であるかを告げていたからだ。
振り向いたら逃げられそうで、家康は背を向けて座ったまま話しかけた。
「お帰り」
「・・・・・・」
「ずっと待っていた。あれから二度春が来たぞ。おまえはもう庭の桜を見たか?」
「・・・・・・」
「元就殿なら厳島に帰したぞ。結局手鏡は見つからなかった。おまえの呪いを解くことができない」
「・・・・・・」
「わしは、おまえと、おまえたちと同じ時間には生きられないのだな」
「家康」
それはひどく懐かしい声だった。掠れたような、咽喉から絞り出すような低い声音。その中にあるのは涙が出そうなほどの優しさで溢れていて、家康は目を閉じて微笑んだ。
「なあ元親。また戦が起るかもしれないんだ。大阪でな」
「家康・・・・」
「おまえは、来てはくれないのだろうな」
攻める口調ではなかった。それは確信だ。友のために手を貸してくれないのか、という気持ちはこれっぽっちもなかった。元親も、そして元就も、戦線を引いた過去の武人なのだ。彼らは己が領地を守るため戦うことはするだろう。また彼らの後継者が力を貸してくれることもあるだろう。それでも、ふたりが、かつて敵対したあのふたりが実際に武器を手に駆けつけてくれるとは思わなかった。それを望むのはお門違いなのだろう。それでも念を押すように尋ねてしまうのは、心のどこかで一抹の望みがあるからだ。未練、とも言う。
だが元親は、小さくごめん、と呟くだけだった。
(ああ、分かっている)
分かっているとも。
ありがとう。
家康がそう言う前に、元親のそんな呟きと謝罪が背中にぶつかった。泣きそうだ。それを堪えて、顔を上げた。思い切って振り向いたが、もうそこには何もない。誰かがいたという痕跡もなく、ただ優しい友のまなざしの名残だけがあって、家康は一粒だけ涙を流した。
「元就様」
たん、と力強く床を踏みしめる音に気付き隆景は扉を開け放した。
次いで現れるのはひどく懐かしい、暗緑色の戦装束に身を固めた武将である。
鳥の翼のような大袖。胸元に揺れる一文字三つ星。続いて現れた隆元が兜を抱えて現れる。長い沓を履くのを手伝い、兜を身につける。家臣が持つ輪刀を渡すため隆景が手に持つとそれがずしりとした重さを伝えた。恭しく差し出されたそれをいとも軽々しく受け取って、元就は、安芸の国主、毛利元就となる。わずかの衰えも見せない若々しい姿は日輪の光を浴びて神々しく輝き、冷たい美貌も見下す事に慣れた視線も何も変わらぬまま。平伏したまま主の言葉を待つ人々が息をのむのが分かる。肌を刺すようなぴりりとした緊迫感に、周囲は静まり返った。
「これより海賊討伐に向かう。全て我が采配通りに動け。使えぬ駒はいらぬ」
死を覚悟せぬ者だけついてこい。
静かな命令だが、力強く響く声に、ざわ、と闘志がふくれあがった。
瀬戸海は凪いでいる。だがいつもは商船が行きかう蒼い海は、数百の舟がいくつかの集団を作り、中央にいる安宅船を取り囲んでいた。ひるがえるは毛利の家紋。びっしりと並んだ毛利の兵たちが弓を構え、合図を待っている。
対するは同じく集団で巨大な大筒をかまえた船を先頭に配置されており、長曾我部の家紋がこれでもかと立ち並んでは、強風にあおられるたび男たちの歓声が上がった。高揚する士気は誰が始めたわけでもなく下手な歌を歌い、法螺貝が鳴り、笑いと下品なヤジとがそれに混ざる。
大筒の先端で碇槍を肩に担いで遥か前方を睨む鬼は、獰猛な笑みを浮かべた。
「さあ、早くきやがれ」
その声が聞こえたわけでもないだろうに、毛利の水軍が速度をぐんぐんあげて迫ってくる。
「撃て!」
怒号と同時に弾がこめられた筒から派手な砲撃が始まった。次々と沈んでいく船に満足しながらさらに速度を上げて毛利の船を捕える。
「あれだ!あの船につけろ!」
「アニキ、小早に飛び乗って下さいよこれ以上速度上げるの無理ですぜ!」
「うっせえな、やればできる!」
気合いだ気合い、などと何とも無謀な命令を下す主君に、部下たちは呆れて、だが豪快に笑いながら仕方ねえな、と肩を叩く。
「楽しそうっすねアニキ」
「当たり前だ。何のために帰ってきたと思ってるんだ」
「毛利と戦うためですかい?」
「ああ、そうだよ!」
眼前に迫る毛利の船の先端に、細い影がすらりと立ちつくしているのが見える。あの特徴的な武器で体を守るようにたつそれは、ぴんと伸びた背と長い兜が彼の存在を大きく見せていた。深く被った兜からのぞく冷え冷えとしたまなざし。
(これだ、俺が欲しいもの)
どくり、と臓腑が熱く滾る。まるで沸騰したての湯を一気に飲み込んだかのような熱さに、思わず左拳で胸をおさえた。
「ふん、久々に相まみえるというにまるで変わらぬ阿呆面よ」
「おうおう言ってくれるじゃねえか隠居じじぃが。あんたとやりあうためにわざわざ戻ってきてやったんだ、おとなしく殺されな!」
「笑止。わざわざ殺されに瀬戸海へ舞い戻ってくるとは、鬼の思考は人とは違いまるで理解不能よ」
言い終わらぬうちに眩い光の輪が飛んでくるのを飛び退って避けると、大きな衝撃とともに二艘の船が横付けにぶつかった。おおおおお、と両軍の兵士たちが一斉に白兵戦を開始する中、元親は碇槍を突き出し跳躍した。急所を狙って振りおろされる重いそれを難なく輪刀で弾いて、元就は軽やかに舞いながら距離をとる。互いの鋭い目が交差し隙を窺う。息を吐く、吸う、細く吐く。二度、三度。
「くたばれ性悪狐が!!」
碇槍が炎をまとって元就の周囲を襲った。足元は波に揺れ、さらに戦う兵士たちの重みでぐらぐらと不安定極まりない。一歩間違えれば海に突き落とされて上がってくることすら困難だろう。それでも海を守り、そこに生きようとするふたりの武将に迷いはなく、恐れもなかった。ごぅ、と全てを焼きつくそうとする炎の中で元就は輪刀を掲げ日輪の威光をもって炎ごと焼きつくそうとする。
「それで仕舞いか海賊。この時のために待っていてやったと言うに物足らぬ」
「ははっ、じゃあ同じだな。ここで決着つかなくても俺はあんたが守ろうとする全てを狙うぜ。何度でも、この先何年、何十年たとうともだ。あんたは俺から逃れられない」
「逃れる?何故逃れなければならぬ。それは我も同じこと。時が尽きることないのであれば未来永劫貴様の首を狙うのみ!」
がきぃ、とふたつの得物がぶつかり合い火花を散らす。白い日輪の光と真っ赤な炎に包まれながら、ふたりは永遠に決着がつかぬのではないかというほど長い時間戦の中にあった。肌が血で濡れ足元がすべり、無様に手をついて転びそこを蹴り飛ばされ、それでもなお立ちあがる。両軍の火薬が尽き兵士たちの体力が尽き日が暮れても、ふたりだけは戦いを止めようとしない。やがて互いの息が切れ同時に沈みかけた船に倒れながら、ふたりは満足そうに笑った。それを見守るように、煤と血に汚れた男たちが少し離れた船の上から見下ろす。
「これで良いのでしょうか」
「良いのでしょう。およそ我らの命ある間、おふたりの間に何かしらの決着がつこうとも思えませぬ」
ごらんなさい、あんなにも楽しそうではありませんか。
そう言いながら疲労困憊の様子で座り込む敵軍の大将を隆元は呆れたように見やって苦笑した。
視線の先ではもうとうに動けないだろうに、両軍の総大将ふたりが沈みかけた船の床に転がって悪態をついている。
「引き上げたほうがよさそうですね」
「そうですね」
よろよろと立ち上がりながらゆっくり去っていく長曾我部の当主に、隆元もうなずいた。
一方、そのうちそれぞれの嫡男あたりが迎えに来るだろう、と勝手に安心しながら、元親と元就のふたりは動けない体を仰向けに倒して明るい月を見上げていた。
「なあ」
「何ぞ」
「どうするよ」
「何がだ」
唐突な問いかけに少し目を隣りを向けると、元親は夜空を仰いだまま目を閉じていた。
「これからだよ」
「・・・・我は厳島を離れぬ」
「家康の時代が終わってもか」
それは、監視下にあるからか、という意味で尋ねたのだろう。
元就は僅かに息を吐いた。笑ったようだ。
「我は日輪と、厳島の女神の加護のもとにあるゆえ」
ふたりでどこかへ行ってしまっても構わない。そう神は微笑んだが。
元就は、愛する厳島を離れるつもりはなかった。たとえ一時的に離れたとしても、きっとここへ戻ってくるだろう。
「貴様はどうするのだ」
「俺か。俺はなあ・・・。別に、四国にいても構わねえが、そうだな。まだ見ていない海を見てぇな」
「そうか」
「ああ。でもまた戻ってくるさ。この瀬戸海にな。おまえがいるから」
「我がいるからか」
「そうだ。あんたがいる限り戻ってくる。そんでこうして戦いを挑むだろう。あんたは海賊討伐にまた出てくるんだろう?そして決着がつかなければまたどこかへ行く」
「何も解決せんではないか」
「何か解決する必要があるのか」
ぎしぎし、と船が傾いて、少しずつ浸水してくるのが分かった。このまま冷たい海に投げ出されてはかなわない。
元親はあちこち痛む体をゆっくり起こして、すぐそばで動かないでいる元就の腕を掴んだ。
「迎えを待ってる余裕はなさそうだ。行こうぜ」
「どこへ」
「どこへって、そりゃあ・・・」
父上、とふたりの男の声がする。みずから船を操りこちらを向かってくるそれぞれの嫡男を認めて、元親は元就の腕を放すと囁いた。
「人のことわりから外れた、隔てた世界へ」
未来永劫、敵としてそばにあるようにと。
そう願った。
<終>
ひとりぼっちじゃねえか、という元親の言葉は彼自身をも悩ませる結果になっていることを、言われた本人は知らなかった。
一体それがどうしたというのか。もとより日輪の加護の元にあるというのに、それ以外の何も望まぬ。天下を掌握しても良いと思ったのはすべて毛利家のためであり、中国のためである。そのために何を裏切ろうと、味方についた(ように見せかけた)西軍がどうなろうと知ったことではない。むしろ石田軍の瓦解を促進しようとすら考えた。結局風来坊の乱入で計画はあっさりと頓挫してしまったが、それでも大谷が倒れた今となっては石田など脅威ではない。ただ家康を恨むだけの私的感情だけで動く男が軍を操れるはずがなく、徳川の世に傾いた時点で何の手も打てなかった彼には復讐とやらを遂げる力があるわけもなかった。
で、あるならば。目下のところ邪魔者は徳川と、そして目障りな長曾我部である。徳川の権勢は毛利家を脅かす厄介な存在だ。けれどいまのところ毛利の家と中国の地に手出しするそぶりは見えない。消極的黙認といったところだろう。監視の目はあるがよほどのことがない限り毛利の内政に口は出さないようである。
行方をくらませた長曾我部元親だったが、四国は彼以外の優れた家臣たちの手によって政は行われてきた部分が大きい。なので、長曾我部の人間は目障りではあるものの脅威ではなかった。
それでも物足りない、と元就は思う。
自分たちの間には何ら決着がついておらぬ。つける機会を失った。
理解しようともされようとも思わないが、曖昧なままもう数十年が過ぎようとしている。ふたりの間に横たわるのは瀬戸海と遥かな隔たりで、互いに理解することを放棄した元就と元親はすでに宿敵、などと優しい言葉では表現できないほどに捻じれている。それが望んだ結果ならばそうなのだろう。
「理解などできぬ。我を理解できるものなどおらぬ。それで良い」
ひとり呟く元就の背に、人の気配が迫った。
振り返ることなく無視し続けたが、やがて気配はあと一歩のところで立ち止まって、ざり、と地面を踏む音だけがやけに大きく響くのだった。
「久しぶりだな毛利。相変わらずだな」
「雑賀孫市か。貴様も相変わらずと見える」
互いの「相変わらず」という言葉にはそれぞれ違う皮肉がこめられていたが、さらりと流した。
「聞いていると思うが、元親のカラスめが厳島から奪ったあげく盗人にすられた手鏡の件だがな、肩すかしをくらったぞ。せっかく取り戻してやろうとしたのだが」
「そうか。所詮はその程度の実力ということか。雑賀の名も落ちたものだな」
「機嫌が良いようだな毛利。何かいい知らせでもあったか」
ふ、と笑ってそう言うと、ようやく元就は振り返った。
「毛利。徳川は何も気づいていないようだが、私には何となく分かる気がする」
「何をだ」
「おまえが望むもの。おまえが待っている理由。おまえの時が止まった意味」
家康が気づくはずがない。何故なら彼は元親の最も近い友人でありながら、外から彼を見ることをしなかったからだ。
孫市は知らぬことだが、おそらく隆景あたりが気づいたのは最も元就に近い位置にありながら客観的に父という存在を崇拝しているからだ。そう元就は思う。ゆえに、雑賀孫市という女は聡く、不快ではない。
「おそらく元親も同じだろう。それも一種の、そうだな、絆というやつか」
「その言葉を口にするな。反吐が出る」
嫌そうに顔をしかめる元就に笑い返して、孫市は背を向けた。
「引き続き手鏡を探すとは言ったが、どうやら見つからないようだな。おまえが相応の金を払うと言うのであればおまえの望みを叶えるための努力をしてやるが」
「我の望み」
「そうだ」
立ち止まって、高い塀に囲まれ切り取られた真っ青な空を見上げた。
息苦しくはないのだろうか。
ここには潮の香りが届かない。彼の愛する厳島のように、さざなみの音も聞こえない。
「すでに西国ではおまえが江戸に軟禁されているという噂が流れている。その割に毛利家が動く気配はないが。元親はおそらく、ほとぼりが冷めた頃にまた日の本へ戻ってくるだろう。それまで待つかどうかはおまえ次第」
元就の時間は限りない。しかし、湯が沸くのを三年待つような無意味な待ち時間などあるだろうか。
「徳川から契約金の前払い以外を取り損ねたからな。初めから無駄だと分かっていれば引き受けなかった」
「結局は金か」
「昔からそうだ。我らの力を認める者に我らはつく」
「訂正しよう。貴様は長曾我部の味方をしたいだけであろう」
「頭の悪すぎるカラスが哀れすぎてな」
動くか、動かないか。
僅かに振り向いて様子を伺えば、無表情の中に困惑を隠せないでいる元就が突っ立っていて、孫市は少しだけ笑った。
元親を案じるのは家康も同じだ。ただ、彼は彼視点でしか友人を見ていない。
元親の望んでいること、考えていること、やろうとしていること。
そこを見通すには、家康は人が良すぎるのだろう。おまえはこんなはずじゃない、こんなやつだ、と、自分の中の理想と、相手の美しさばかりを信じて。
元就と真逆なのだろうといまさらながらに思う。
人と世界の負の感情ばかりを思う元就と、人は誰でも絆の元に分かりあえると信じている家康。同じ光を力の源とするにはあまりにも違いすぎる。求める相手は同じで、けれど求める方向性が違う。
幸せであれば良いと孫市は投げやりに思う。
その幸せとやらは、しかし誰もがすぐさま思い浮かべるような優しいものだけではないと、家康は気づいているだろうか。
その知らせを運んできたのは、常に傍らにある相棒だった。自由に空を飛びまわり、数日姿を消したかと思えば唐突に舞い戻ってくるのだから、もういちいち心配していてもキリがない、と元親は頭をかいて鳥の頭を撫でる。
「ああ?おまえ何だそれ?」
見れば細い足に見覚えのない小さな紙がぐるりと巻きついていて、きっちりと紐が結ばれている。文だ。ご丁寧に油紙で包んで濡れても平気なように配慮してある。
家康だろうか、とちらりと思ったが、この鳥は江戸になじもうとせず元親が江戸城にいる間はずっと港に停泊している船にいたから、家康と知らない間に友好を結んだとも思えない。
丁寧に外しくるくると開いて中を確認すると、元親は隠されていない方の目を細めて唸り声を上げた。
「いらねぇ世話寄こしやがって・・・」
いくらでも時間があるのだから、と思ったのが間違いだったのだろうか。
いつからか老いないと知った時、即座に脳裏に浮かんだのは暗緑色の戦装束に身を包んだ冷酷な男のことだった。ざわ、と全身に鳥肌がたったあの瞬間をいまだ覚えている。江戸で好奇の目にさらされ、家康に心配された日々をかきけすような衝撃。臓腑を抉るような熱い快感。本気でふるうことのなくなった碇槍の重さを思い出す。
「どうだっていいんだ、不老がどうとか、そんなことは。そこじゃねえ、俺は。俺の望みは!」
たったひとつ。
体内の血が沸騰するような、あの感覚を取り戻して、元親は大海原の真ん中で叫ぶ。
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次くらいが最終回かなあ