音もなく、背後に人の気配がしたとこに家康はそれほど驚かなかった。何故ならそれはよく知ったもので、ふわりと漂う潮の香りが誰であるかを告げていたからだ。
振り向いたら逃げられそうで、家康は背を向けて座ったまま話しかけた。
「お帰り」
「・・・・・・」
「ずっと待っていた。あれから二度春が来たぞ。おまえはもう庭の桜を見たか?」
「・・・・・・」
「元就殿なら厳島に帰したぞ。結局手鏡は見つからなかった。おまえの呪いを解くことができない」
「・・・・・・」
「わしは、おまえと、おまえたちと同じ時間には生きられないのだな」
「家康」
それはひどく懐かしい声だった。掠れたような、咽喉から絞り出すような低い声音。その中にあるのは涙が出そうなほどの優しさで溢れていて、家康は目を閉じて微笑んだ。
「なあ元親。また戦が起るかもしれないんだ。大阪でな」
「家康・・・・」
「おまえは、来てはくれないのだろうな」
攻める口調ではなかった。それは確信だ。友のために手を貸してくれないのか、という気持ちはこれっぽっちもなかった。元親も、そして元就も、戦線を引いた過去の武人なのだ。彼らは己が領地を守るため戦うことはするだろう。また彼らの後継者が力を貸してくれることもあるだろう。それでも、ふたりが、かつて敵対したあのふたりが実際に武器を手に駆けつけてくれるとは思わなかった。それを望むのはお門違いなのだろう。それでも念を押すように尋ねてしまうのは、心のどこかで一抹の望みがあるからだ。未練、とも言う。
だが元親は、小さくごめん、と呟くだけだった。
(ああ、分かっている)
分かっているとも。
ありがとう。
家康がそう言う前に、元親のそんな呟きと謝罪が背中にぶつかった。泣きそうだ。それを堪えて、顔を上げた。思い切って振り向いたが、もうそこには何もない。誰かがいたという痕跡もなく、ただ優しい友のまなざしの名残だけがあって、家康は一粒だけ涙を流した。
「元就様」
たん、と力強く床を踏みしめる音に気付き隆景は扉を開け放した。
次いで現れるのはひどく懐かしい、暗緑色の戦装束に身を固めた武将である。
鳥の翼のような大袖。胸元に揺れる一文字三つ星。続いて現れた隆元が兜を抱えて現れる。長い沓を履くのを手伝い、兜を身につける。家臣が持つ輪刀を渡すため隆景が手に持つとそれがずしりとした重さを伝えた。恭しく差し出されたそれをいとも軽々しく受け取って、元就は、安芸の国主、毛利元就となる。わずかの衰えも見せない若々しい姿は日輪の光を浴びて神々しく輝き、冷たい美貌も見下す事に慣れた視線も何も変わらぬまま。平伏したまま主の言葉を待つ人々が息をのむのが分かる。肌を刺すようなぴりりとした緊迫感に、周囲は静まり返った。
「これより海賊討伐に向かう。全て我が采配通りに動け。使えぬ駒はいらぬ」
死を覚悟せぬ者だけついてこい。
静かな命令だが、力強く響く声に、ざわ、と闘志がふくれあがった。
瀬戸海は凪いでいる。だがいつもは商船が行きかう蒼い海は、数百の舟がいくつかの集団を作り、中央にいる安宅船を取り囲んでいた。ひるがえるは毛利の家紋。びっしりと並んだ毛利の兵たちが弓を構え、合図を待っている。
対するは同じく集団で巨大な大筒をかまえた船を先頭に配置されており、長曾我部の家紋がこれでもかと立ち並んでは、強風にあおられるたび男たちの歓声が上がった。高揚する士気は誰が始めたわけでもなく下手な歌を歌い、法螺貝が鳴り、笑いと下品なヤジとがそれに混ざる。
大筒の先端で碇槍を肩に担いで遥か前方を睨む鬼は、獰猛な笑みを浮かべた。
「さあ、早くきやがれ」
その声が聞こえたわけでもないだろうに、毛利の水軍が速度をぐんぐんあげて迫ってくる。
「撃て!」
怒号と同時に弾がこめられた筒から派手な砲撃が始まった。次々と沈んでいく船に満足しながらさらに速度を上げて毛利の船を捕える。
「あれだ!あの船につけろ!」
「アニキ、小早に飛び乗って下さいよこれ以上速度上げるの無理ですぜ!」
「うっせえな、やればできる!」
気合いだ気合い、などと何とも無謀な命令を下す主君に、部下たちは呆れて、だが豪快に笑いながら仕方ねえな、と肩を叩く。
「楽しそうっすねアニキ」
「当たり前だ。何のために帰ってきたと思ってるんだ」
「毛利と戦うためですかい?」
「ああ、そうだよ!」
眼前に迫る毛利の船の先端に、細い影がすらりと立ちつくしているのが見える。あの特徴的な武器で体を守るようにたつそれは、ぴんと伸びた背と長い兜が彼の存在を大きく見せていた。深く被った兜からのぞく冷え冷えとしたまなざし。
(これだ、俺が欲しいもの)
どくり、と臓腑が熱く滾る。まるで沸騰したての湯を一気に飲み込んだかのような熱さに、思わず左拳で胸をおさえた。
「ふん、久々に相まみえるというにまるで変わらぬ阿呆面よ」
「おうおう言ってくれるじゃねえか隠居じじぃが。あんたとやりあうためにわざわざ戻ってきてやったんだ、おとなしく殺されな!」
「笑止。わざわざ殺されに瀬戸海へ舞い戻ってくるとは、鬼の思考は人とは違いまるで理解不能よ」
言い終わらぬうちに眩い光の輪が飛んでくるのを飛び退って避けると、大きな衝撃とともに二艘の船が横付けにぶつかった。おおおおお、と両軍の兵士たちが一斉に白兵戦を開始する中、元親は碇槍を突き出し跳躍した。急所を狙って振りおろされる重いそれを難なく輪刀で弾いて、元就は軽やかに舞いながら距離をとる。互いの鋭い目が交差し隙を窺う。息を吐く、吸う、細く吐く。二度、三度。
「くたばれ性悪狐が!!」
碇槍が炎をまとって元就の周囲を襲った。足元は波に揺れ、さらに戦う兵士たちの重みでぐらぐらと不安定極まりない。一歩間違えれば海に突き落とされて上がってくることすら困難だろう。それでも海を守り、そこに生きようとするふたりの武将に迷いはなく、恐れもなかった。ごぅ、と全てを焼きつくそうとする炎の中で元就は輪刀を掲げ日輪の威光をもって炎ごと焼きつくそうとする。
「それで仕舞いか海賊。この時のために待っていてやったと言うに物足らぬ」
「ははっ、じゃあ同じだな。ここで決着つかなくても俺はあんたが守ろうとする全てを狙うぜ。何度でも、この先何年、何十年たとうともだ。あんたは俺から逃れられない」
「逃れる?何故逃れなければならぬ。それは我も同じこと。時が尽きることないのであれば未来永劫貴様の首を狙うのみ!」
がきぃ、とふたつの得物がぶつかり合い火花を散らす。白い日輪の光と真っ赤な炎に包まれながら、ふたりは永遠に決着がつかぬのではないかというほど長い時間戦の中にあった。肌が血で濡れ足元がすべり、無様に手をついて転びそこを蹴り飛ばされ、それでもなお立ちあがる。両軍の火薬が尽き兵士たちの体力が尽き日が暮れても、ふたりだけは戦いを止めようとしない。やがて互いの息が切れ同時に沈みかけた船に倒れながら、ふたりは満足そうに笑った。それを見守るように、煤と血に汚れた男たちが少し離れた船の上から見下ろす。
「これで良いのでしょうか」
「良いのでしょう。およそ我らの命ある間、おふたりの間に何かしらの決着がつこうとも思えませぬ」
ごらんなさい、あんなにも楽しそうではありませんか。
そう言いながら疲労困憊の様子で座り込む敵軍の大将を隆元は呆れたように見やって苦笑した。
視線の先ではもうとうに動けないだろうに、両軍の総大将ふたりが沈みかけた船の床に転がって悪態をついている。
「引き上げたほうがよさそうですね」
「そうですね」
よろよろと立ち上がりながらゆっくり去っていく長曾我部の当主に、隆元もうなずいた。
一方、そのうちそれぞれの嫡男あたりが迎えに来るだろう、と勝手に安心しながら、元親と元就のふたりは動けない体を仰向けに倒して明るい月を見上げていた。
「なあ」
「何ぞ」
「どうするよ」
「何がだ」
唐突な問いかけに少し目を隣りを向けると、元親は夜空を仰いだまま目を閉じていた。
「これからだよ」
「・・・・我は厳島を離れぬ」
「家康の時代が終わってもか」
それは、監視下にあるからか、という意味で尋ねたのだろう。
元就は僅かに息を吐いた。笑ったようだ。
「我は日輪と、厳島の女神の加護のもとにあるゆえ」
ふたりでどこかへ行ってしまっても構わない。そう神は微笑んだが。
元就は、愛する厳島を離れるつもりはなかった。たとえ一時的に離れたとしても、きっとここへ戻ってくるだろう。
「貴様はどうするのだ」
「俺か。俺はなあ・・・。別に、四国にいても構わねえが、そうだな。まだ見ていない海を見てぇな」
「そうか」
「ああ。でもまた戻ってくるさ。この瀬戸海にな。おまえがいるから」
「我がいるからか」
「そうだ。あんたがいる限り戻ってくる。そんでこうして戦いを挑むだろう。あんたは海賊討伐にまた出てくるんだろう?そして決着がつかなければまたどこかへ行く」
「何も解決せんではないか」
「何か解決する必要があるのか」
ぎしぎし、と船が傾いて、少しずつ浸水してくるのが分かった。このまま冷たい海に投げ出されてはかなわない。
元親はあちこち痛む体をゆっくり起こして、すぐそばで動かないでいる元就の腕を掴んだ。
「迎えを待ってる余裕はなさそうだ。行こうぜ」
「どこへ」
「どこへって、そりゃあ・・・」
父上、とふたりの男の声がする。みずから船を操りこちらを向かってくるそれぞれの嫡男を認めて、元親は元就の腕を放すと囁いた。
「人のことわりから外れた、隔てた世界へ」
未来永劫、敵としてそばにあるようにと。
そう願った。
<終>