奇跡というものが存在するのなら、その光景を目にしたことがある。
人は死ぬ直前、走馬灯が脳裏によぎるのだと言う。ならば厳島での死闘の後、ほぼ同時に相討ちとなった瞬間倒れ伏す自分が見たのは、その走馬灯なのだろうか。
目の前いっぱいに広がる真っ白な世界。海上に美しくそびえたつ赤い鳥居だけが色を放ち、あとはひたすら白だ。己の具足も、踏みしめた床も、血の色さえもが雪のようで、冷たく硬い地面に頭をうちつけたはずなのに何の痛みも感じず、穏やかな、暖かい風と潮の香りだけが元就を優しく抱きとめていた。
ぐるぐると時間が巻き戻って行く。石田軍壊滅の予測をたてて西軍につくと決めた朝。泥と雨にうたれるばかりの戦場。大谷からの密使。耐え忍んだ豊臣全盛期。織田の滅亡、対岸からやってくる鬼。新たな家族を得て日輪に感謝を捧げた日、毛利家を継いだ夜。実弟を手にかけた暗い雨の日。城を追い出されひとり復讐を誓った粗末な小屋の藁の感触、兄と父の死、それから、、、
全てが白に。
死ぬのか、と尋ねる声は何故か自分のものではなかったように思う。
死にたくないか、と言っていたのかもしれない。記憶は曖昧で、ただとっくの昔に忘れ去った優しい義母の声に似ていた。死ぬまで元就を見捨てなかった、血の繋がらない家族だった。愛していたと思う。彼女がいなければきっと命はなかっただろう。
「それが宿命なら」
そう答えた。
ここで死ぬさだめであれば、抗う理由はなく、抗っても無駄である。
血に濡れた手で極楽浄土へ行けるなどと思ってはいない。ただ死ねばそれまでだ。死んだ後のことまで考えて生きるほど、戦国の世に立つ武将に、国主に余裕などない。
それでもちらりと胸によぎるのは微かな未練だった。
毛利家は今後どうなるのか。厳島は。安芸の国は。家族、というものにそれほど執着はないけれど、血縁は毛利の家であり、子孫となる。それを絶やすわけにはいかない。隆元は無事だろうか。
「ずっと一緒にいましょうか」
女の声が響く。ゆらゆらと波にたゆたう。元就は真っ白な世界の中で必死に目を凝らして、声の主を探した。
「何者か」
「いつも一緒にいた」
「知らぬ」
妻ではないし、下女の声などいちいち覚えてもいない。
女は笑ったようだった。
「私の眷族になる。人であって人でない。厳島という私を守り、祈る、守護者になる。いつも孤独なら、何も寂しくない」
孤独、という言葉にびくりとする。
ひとりで良い、と思っていた。ひとりぼっちだ、などと詰られた時もあった。これからもひとりなのだと突き付けられた。けれど、実は元就は、そうではないことを知っていた。
「戦が終わるのならば、もう少し愛されてもいい。もう少し愛してみては?いつかあなたの前に、似て非なる者が現れるかもしれない。そうしたら、ふたりで外へ出て行ってもいいのよ」
ああ、何を言っているのかさっぱり理解できぬ。
目を覚ますと横にしていた顔が柔らかなものに乗せられていて、元就はぎょっとして体を起こした。ちかちかと奇妙な模様がまぶたの裏に浮き出てはじんと目玉が痺れたように痛い。一度ぎゅっと目をつむってから再び開けると、すでに朝の気配が近づいていた。
「夢を見ていたの?眩しい、眩しいって寝言を呟いていた」
「そなたのせいであろう」
振り返るとやけに古めかしい、貴族のような格好の女がくすくす笑っている。
「教えてあげればいいのに。手鏡は厳島の宝物で、呪いを解く方法はひとつしかないって」
むっとしたように、元就は跳ねた髪を手で押さえつけた。
「盗人を助ける必要などない」
「自分と同じでいてほしいから?いつか鬼はここへやってくる。あなたが自分と同じように老いない体だと知っているから、浚いに来るかもしれない」
「何故だ?」
「それを聞くの」
「あれは敵ぞ。互いに殺し合いをした。決着はつかなんだが。我を殺しに来るならば分かるが浚いに来るとは何だ」
「肝心なところだけ考えるのを放棄するのね」
これだけ遠くに離れているだろう、鬼の考えが、私にも分かるのに、と女神は言う。
呪いを解く方法を知っているとすれば、元就様だけだろう、と弟は言った。
「やはりそうか・・・。父上のご機嫌は直っただろうか」
「兄上は鬼の呪いを解いてやることに賛成なのですね?」
それは人ならざる身が人に戻ることを意味する。
「おまえは違うのか?」
不思議そうに聞く隆元に、隆景は元就によく似た顔立ちで僅かにうつむいた。
「しかしこのままでは父上はいずれひとりぼっちですよ」
「・・・・・・それは、我々がいつかは老いて死に絶えるからか」
「それに父上はきっと鬼がやってくるのを知っている」
「知っている?」
やけに確信を持って言ってのけるものだ、と怪訝に思った。
「だから厳島からお出にならないのでしょう。父上ともあろうお方が、徳川の監視の目をくぐれぬとお思いか?」
「・・・・・・それは、どうだろうか」
「兄上は父上の力量をまだ見くびっておられる」
隆景の口調に嫌みはない。ただ本心を述べている、ただそれだけのようだ。だから隆元も怒りを感じない。自分の無能さや頼りなさは誰よりも知っている。
「さて、鬼を味方につけるか、徳川家康の友情とやらのために父上の意に沿わぬ真似事をするか。結論はひとつしかないではありませんか」
二者択一のようでいて、はじめから選ぶ答えは決まっているようだ。
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だいたい想像通り。
続きは来週・・・かな・・・?
暗い緑色をした海を見下ろしながら元親はぼんやりと思う。
いつでも同じ表情。いつでも同じ声音。いつでも同じ目。
いつでも同じ美しいかの男。
ようやく嵐が静まった朝の波は穏やかで、多少高くはあるけれど心地よい揺れに瞼が重くなってくる。
いつでも同じ。
自分も、おそらくあの男も。
何とか口添えをしてもらえないか、とダメ元で隆元あたりに頼んでみよう、といまいち頼りない決意をしながら、家康は案内された宴席を抜け出して冷たい廊下をひとり歩いていた。すっかり日の暮れた厳島の境内には橙色の灯が計算され尽くしたような間隔でゆらゆらと揺れている。確かにそこここに人の気配はするものの、ひどく静かだ。空気も冷え切っていて、すぐさま酔いはさめていく。波のざざざ、という音が心地よい。あの男は日輪を愛しているけれど、こうして群青色に染まり、波の音だけが響く夜もきっと好ましく思っているに違いない。そう確信するほどに。
もう少し近くで海を見よう、と能舞台へと足を進めていると、ぼんやりと白いものが浮かび上がっているのに気づいてぎょっとした。
まさか神聖な場所で幽霊などと遭遇するはずがあるまい。気を取り直して近くへ寄って行く。おぼろげだった白い影は少しずつ人の形を作り出し、近づいて見ると何のことはない、緋袴姿の女が扇を手に神楽舞の練習をしているのであった。床につくほどの長い黒髪をひとつに垂らし、ああでもないこうでもないと扇をくるくるまわしては首を傾げている。背格好は普通だが、月明かりに照らされた顔は愛らしく、十代のようにも二十代のようにも見えた。思わず足を踏み出した家康だったが、どう声をかけていいか分からずそっとその場を離れることにする。邪魔をしないほうが良いだろう。
あの女性は誰だろうか。毛利縁のものか、巫女か。
(厳島に巫女がいただろうか?)
だが人手がいるならば、神官の身内がそれを手伝うこともあるだろう。
潮の香りをふんだんに胸に吸い込んで、そろそろ戻った方が良いだろう、ときびすを返したところで、宴席にあてがわれた部屋の方角からひとりの男が足早に近づいてくるのが見えて立ち止まった。
「隆元殿」
「家康様こちらにおいででしたか。急にお姿が見えなくなったものですから」
「すまない、少し風に当たりたくなって」
「ならば良いのですが」
お加減でも悪いのか、と心配そうに顔をのぞきこんでくるので、笑って首を振った。
年は同じくらいだろうか。毛利元就の嫡男にしてはあまり似ていない。温和な物腰に柔らかい表情。少々神経質なところも見て取れるが、元就とは違った意味で良い主君なのだろう、家臣からも慕われているようだった。
彼は長く人質の身にあったというから、そのあたりも妙な親近感がわく。彼の方はそんなことはないだろうが。
「お父上のご機嫌はどうかな」
あえて軽い口調で尋ねるが、隆元はひどく真面目な顔で申し訳なさそうに首をすくめた。
「申し訳ございません。父は酒の席はお嫌いなのです」
「いや、それは知っている。明日、またわしと話をしてくれるだろうか?」
「ご命令とあれば」
「いやそうではなくて・・・」
わざと言っている様子ではない。真面目な隆元は本気で、それは天下人としての命令なのだろうかと聞いているのである。融通が利かないというかずれていると言うか。必要以上にびくびくしないでほしい、と家康は思うのだが、それは酷というものだろう。自分の指先ひとつ、鶴の一声で毛利家の取り潰しができると彼は思っている。それは正解だ。ただし、できることとやっていいこと、そしてやらなくてはならないことはまた別問題である。それを知っているからこそ元就は悠然と構えているのだろうし、堂々と逆らいもする。
もうこの世において、そんな真似をするのは元就くらいではないだろうか。
「隆元殿。わしはどうしても友を助けたいのだ」
「友、とおっしゃいますと・・・・・・」
言いづらそうに口ごもる。毛利家にとって長曾我部という名は文字通り鬼門なのだろう。
「おまえの父君が老いないのは宝具の呪いではない、と聞いた。だが元親が何故そうなったのか・・・あの手鏡が原因ならまずそれを取り返さなくてはならない」
「おそれながら。取り返す協力を毛利にせよとおっしゃるのですか?」
「いや、とりあえず、その手鏡がこの厳島から持ち出されたものであることの確認と、本当に不老の呪いがかかっているのならそれを解く方法が知りたいのだ」
「不老は呪いですか」
「わしはそう思う」
はっきりと言い切った家康に、隆元は驚いて、わずかに目を見開いた。
「不老不死は人としての悲願ではありませぬか?」
「そう思うか?」
「・・・・・・・・」
改めて正面から問われると、戸惑う。
隆元は脳裏に偉大な父の姿を思い浮かべる。
自分が幼いころから変わらぬ美しい姿。それを呪いと呼ぶにはあまりにも神々しく、似つかわしくない。しかし元就も家康も、老いないということは呪いだと言う。
父は呪われているのか?
「ああ、そう言えば隆元殿。先ほど能舞台でおなごが舞の練習をしていたぞ」
「・・・・・・おなご?」
はて、と首を傾げる。世話役の女はいくらかいるが、舞を踊るようなものはいないはずだ。
「どういう女でしたか?」
「ここの巫女なのだろう」
当然のように言い放つ家康に違和感をおぼえる。
(私の知らない女が厳島に出入りしている?)
「そろそろ戻ろう。みな心配しているかもしれない」
明日もう一度元就の機嫌を伺ってみよう、とことさら明るく言う家康に、隆元はうなずくしかなかった。
彼についていこうとして、どうしても気になってひとり能舞台の様子を見に行くことにした。ついでに宝物殿の記録も調べてこよう。隆景に探させているのなら、彼に聞くのもいいだろう。今頃になって、はじめから自分でやっておけばよかった行動を思いつく自分が情けなかった。まるで頭がまわっていない。
これだから、いつまでも父に頼ることになるのだ。
能舞台に、ぼんやりとした灯りがうごめいている。
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コンセプトは「好き勝手だらだら書く」です(超今更)