まだ安芸から連絡はこないのか、と僅かに焦ったような声で尋ねる家康に、彼の忠実な部下はさらに頭を低くした。
「幾度使者を送っても、まだ時間がかかるとの返事。どれだけの文献を紐解いているのかと尋ねても、大昔の書ゆえ解読に時間がかかっているようです」
「そうか」
嘆息して、他に誰もいない廊下をふたりひたひたと歩く。続く先は完全な私的空間であり、よほど気心の知れた配下しか立ち入りを許さなかった。奥屋敷との境には見張りの兵がふたり、深々と頭を下げて天下人を通す。
「元就殿はどうしている?」
「は、茶室に」
「・・・・・ふうん」
茶室か、と家康は近習に目配せして下がらせた後庭へと出た。
自分のためだけに作らせた館、自分のためだけの茶室。そこに人を招いたのはこれまでにふたりだけだ。元親は茶の湯なんて、などと言いながらも、常時の振る舞いからは想像できないほど礼儀正しく茶をたてていた。嫌々教え込まれたのだと眉間に皺をよせながら、小さく切り取られた菓子をほおばっていたのを覚えている。そういう仕草のひとつひとつを見るたびに、ああ彼はまがりなりにも国主であったのだ、と思い知らされる。気の良い友人、海の男、四国を司る主。みっつの顔を持つ長曾我部元親という男の存在は、家康によって三成に対するものとも違う、ひどく心地よいものだった。彼には嘘をつく必要がなく、正面から何を言っても彼が怒ることはなく、ただ大人びた顔で困ったように笑う。年月が流れ自分だけ中年と言っても良い年にさしかかろうと、変わらぬ姿で元親はただ微笑んでいた。
留まる場所がないのは辛かろう、居心地が悪かろうとこの館を提供し、ほとんど江戸を離れることの叶わぬ家康の代わりに国の外の事や海での出来事を尽きることなく話してくれた。いつまでたっても弟に対するような接し方は、外見年齢が完全に逆転してしまっても変わらなかった。
元親の存在は家康にとって不変のものであったが、元親の時間が止まったままということはこの先必ず別れが来ることを意味していた。それはどうしても我慢ならないと思った。秀吉も、半兵衛も、三成も、大谷も、もう彼のそばにはいない。誰よりも一緒にいた忠勝すら昔のようにいつも隣りにいるというわけにはいかなくなった。彼の背に乗って自由に空を飛ぶことすら叶わない。それは家康自身が選んだ道だった。
いっそ閉じ込めてしまおうか、などと考えたこともあったが、きっと一か所に留まるような男ではないとすぐに打ち消した。ならば、いつでも帰ってこられる場所でありたい。けれど日に日に元親は姿を消したままもう二度と戻らぬのではないかという焦燥感が強くなっていった。彼はいつも別れ際には軽く手を振って、またな、と言い残す。だが最後に彼を見送った時はどうだ。元親は振り返って雄々しく笑んで、じゃあな、と言ったのだ。それを聞いた時家康は悟った。これは今生の別れのつもりではないかと。そして、決して寂しそうな目をしていなかった鬼の隻眼について考える。彼はひとりではない。少なくとも元親自身はそう考えていない。どこか余裕のある表情。何か企むような笑み。そして考える。彼はいつでも、ひとりではないと分かっているのだ。
ああ、わしもそうであったなら。
けれどそれは叶わない。呪いの宝具を手にしたとしても、家康は不老でありたいとは考えないだろう。時代は継承するものだ。太陽のように人々を照らす存在でありたいけれど、人であることをやめて神になろうなどと。幾度となく復活し日の本を混乱させた大六天魔王のようにおそれられる存在になってはならぬ。
元親のように奔放に生きられるのなら、不老であっても誰も自分のことを知らぬ土地へ行って身を隠す事は出来る。では元就はどうか。
(彼は厳島から出ない。毛利家にとって毛利元就という存在はすでに神に等しい)
だからこそ元親は彼を連れて行くか、そばにいようとするだろう、と結論づけた。それが今でなくていい。自分たちを知る者が老いて死に絶えた数十年後であろうと何ら構わないのだ。時間の進む自分たちとは違い、彼らには余りある時があるのだから。
「元就殿」
声をかけてにじり口から声をかける、ふわりと湯気が漂って、茶の芳香が鼻をくすぐった。
「いいだろうか」
「ならぬ、と申したところで貴様は入るのであろう。ならば好きにするがよい」
どうでもよさそうな返事とともに貴人口の障子戸が開けられ、ぬっと真っ白な腕が差し込まれた。
「では失礼する」
質素だが品の良い着物をつけて、元就はひとり誰もいない狭い茶室で湯を沸かしていた。
「何ぞ愚痴でも吐きにきたか」
「いや、そういうわけではないが。それよりあなたこそ文句がたくさんおありだろう」
どうだ、と目を上げれば、華奢な背はぴんと延びたままちらりとこちらを見上げただけで表情はなかった。
「退屈な一年ぞ。だが悪くはない」
「そう、なのか?」
元就が江戸へ連れられてきて四つの季節が巡っていた。軟禁しているわけではないので希望があればいつでも厳島へ戻って用を済ませることを許可していたが、元就は一度も帰りたいとは言わなかった。ただひたすら、この隔離された静かな場所で、茶をたてたり書を読んだり庭を散策したりのんびり暮らしている。何でもないような顔で、どうでもよさそうに。それが家康には理解できなかった。
「元就殿、隆元殿に文を出してはくれないか」
「我が出したところで何とする?」
「だがあちらからあなたが息災かどうかの文は月に一度来るのに、あなたは一度も返事を出していないではないか。これでは変に思われてしまう」
「変に、とは」
「だから・・・・・。わしが、あなたに無体を強いているのでは、とか、そういう」
事実、何度も安芸からは元就の暮らしぶりを事細かに尋ねる慇懃無礼な手紙が山のように来ていた。元就自身の筆跡で返事がないことをひどくいぶかしんでいるのだろう。この館に滞在する限り、元就は自分から動かない限り外からの干渉を一切受けない。密かに処刑されたのでは、などと風聞がたっては非常に困る。
「家族が心配している」
「否、そんなことはあるまい」
「何故そう言い切れる?現に隆元殿からの文が」
「煩わしいだけよ。我は外界と隔てたこの場所が存外気に入っておる。邪魔だてするなと言ってやれ」
「元就殿」
取り付く島のない様子に、家康は何も言い返せず、癇に障るほどに丁寧に差し出された茶を啜った。
困惑した表情を貼りつかせたまま茶室を出て行く家康の背を見つめながら、元就はひっそり唇の端を上げて笑う。
「やつらもよく、やっておるわ」
決して直接言うことのない賛辞を、そっと風に乗せた。
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