「久しぶりだな、毛利殿。息災のようで何よりだ」
「ふん。そなたは老けたな征夷大将軍殿」
思い切り皮肉を込めて笑いかければ、家康ははっきりと苦笑した。
「あなたは変わらないな。初めてわしが会った時から何も変わらない」
今や日の本を手中におさめる天下人だというのに、家康は従者を外に待たせたままひとり、元就が住む屋敷の内にいる。いくらか揉めたのだろうが、毛利を敵視する人間をもてなすほど元就も、そして毛利の人々も寛大ではなかった。それを先読みしての家康の行動は、善意ともとれるし、どうせ何も手出しできないのだからと嘲笑うかのようにも思える。
元就の少し後ろには隆元が座っている。これではどちらが当主やら、と思うが、今回の場合家康は元就に用がある、とはっきり明言しているのだから、これでいいのだろう。隆元はわずかに視線を動かして、鬼の気配がないことに安堵した。
家康の用とやらが呪いの宝物に関することであれば、その呪いにかかっているだろう長曾我部元親も一緒に来るだろうと思っていたからだ。当然、簡単に父に会わせるつもりなど毛頭ないのだけれど。
「それで、何の用だ。我は隠遁した身ゆえ長々と話す相手でもなかろう、将軍殿」
「やめてくれ、毛利殿。何だかこそばゆい」
すでに天下人としての風格を備え、どっしりした体格と落ちついた性格がようやく見合うようになった、と元就は分析する。昔は、それこそ十五年ほど前は理想と現実の差に苦しみながらもがき、ただひたすら突き進む若さで眩しかった。ただそれだけだった、とも言える。彼は自分の理想と、それを実現させるだけの力を振るうことを覚悟したと言いながらもどこかで迷いがあった。信じる者は全て頼れる者だと甘い考えを持っていた。
(だから馬鹿な鬼にあっさり裏切られる)
誤解は解けてもわだかまりは残る。それは元親に対してではない、何故、正面から、違うのだと、そう伝えることをしなかっただろうという後悔だ。一歩間違えればふたりとも絶望に底に叩き落されるところだったのだから。
人の心はうつろいやすく、決して善人ばかりではなく、またどす黒い感情と念がうずまくものだと。
そろそろ気づいただろうか。
理想で世界は変えられぬ。
愛などでは何も救えぬのと同じように、綺麗事ではなにも立ちゆかないのである。
ただひとつだけ、元就が信じるものがあるとすればそれは日輪のみであり、血縁者でさえ信用と信頼の対象ではなかった。
彼が守るべきは家であり、家族ではなかった。
ただ、必要だと思うからこそ、身内のために試行錯誤するのだが。
家康はひとつ咳払いをしてから置かれた茶をためらいなく飲み干すと、背筋を伸ばして元就を正面から見据えた。
「実は、三年ほど前元親から預かったとある宝が盗まれた」
真剣な面持ちで告げる家康に、元就は堪え切れずに噴き出した。
ふ、ふ、ふ、と扇子で口元を覆い隠しながら笑う姿に、隆元が慌てて腰を浮かせる。
「なんと愉快な話ぞ。盗品がさらに盗まれたか」
「笑いごとではないのだ」
「これを笑わずして他になにを笑えと申すのだ。おかしくてたまらぬ。礼に今宵は宴で盛大にもてなしてやろうぞ」
「毛利殿!」
ついに苛立たしげに声を荒げた家康に、部屋の外に控える従者たちがびくりと肩を震わせた。だが当然元就が動じるはずもなく、おかしげに目を細めるだけに留まった。冷静な彼の様子に、家康ははっとしてすまん、と呟く。
「だがこれは大事なのだ。あの宝具は・・・・・・」
神器なのだろう、と家康は確かめるように言った。
俺はもうここにはいられねえ。
酒を手にふらりとやってきた元親がぼそりと呟いたそのときの表情を、家康ははっきりと覚えている。夜の帳が下りた闇の中、煌々と中庭を照らす橙色の月とゆらりと揺れる灯だけが陽炎のようだった。香るのは上等な酒精で、それだけで酔ってしまいそうな芳香がいっぱいに広がっている。庭に生息するのは家康が薬を作る材料になるものだ。生ぬるい風にざわりと揺れながら、手折られるのを待っているようで。
「元親」
彼の言わんとすることを家康は知っていた。
天下を二分する大きな戦からすでに十年ほどがたっていた。太平の世の地盤を固めるのは容易ではない。それでも、仕組みを整え、様々な法を整備し、かつて敵対していた大名諸国に目を光らせる。家康が忙しくする一方で元親は四国の立て直しをあらかた終えるとふらりと大海へ出るようになった。あまり国へ帰ろうとしないのは居辛いからなのか、それとも海を隔てた対岸を眺めていたくないからか。それでもたまに戻ってきては珍しい贈答品を江戸へ持ってきてくれる。その度に、もう少し、もう少しと引きとめては一緒にいてくれないかと言うのだが、元親が応とうなずくことはなかった。
何度海へ出て戻ってきても。
西海の鬼とよばれていた男は変わらなかった。
そうしてもう十年だ。
長い時で一年、短くとも三月は姿をくらます彼が戻ってくるたび、少しずつ周囲の反応がおかしくなっていった。
鬼だ。
鬼はもうずっとあのまま年をとっておらぬように見える。
やはりあれは人ではないのか。怨嗟を糧に生き続ける正真正銘の鬼ではないのか。
そんな噂は城中に、そしてやがては征夷大将軍が鬼を飼い馴らしている、という尾ひれまでついて城下を駆け巡って行った。
土佐と言う、遠い国を知らぬ者たちも多い。かの国は日の本にあって日の本にあらず。それを家康様が手中におさめたのだ、と。それは偉業ではあるが、果たして鬼をこのまま天下人の近くに好き勝手においてよいものか。
家康とて、何もかもが意のままに操れるわけではない。失脚を狙う古い人間もいる。彼は天下人ではあるが、敵は外部だけに存在するわけではなかった。
だからこそ、と家康は思う。
だからこそ、元親には近くにいてほしかった。何でも相談できる、友人であってほしかった。
「元親、周囲の目なら気にしなくていい。おまえはそんなことで委縮する男じゃないだろう?」
だからどこかへ行ってしまわないでくれ。否、航海に出るならそれでもいい。必ずいつものように戻ってきてほしい。
そう家康は告げるのだったが。
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つづきはまた来週