何か変わったことはないかね、と尋ねる隊長の表情は柔らかく、癖のように頭に手を置いてくるのは挨拶のようなものだ。
背中に突き刺さる視線を振り払うようにして兵部は大きくうなずく。
拍子に革の手袋で覆われた大きな手が外れるのを少しだけ寂しそうに見上げた。
あと何年待てば彼に近づけるだろう。背も、中身も。
戦闘能力で言えばはるかに自分の方が上だろうけれど、それでもこの男に勝てる気はしなかった。
この、笑みを浮かべながら冷酷な指示が出せるほどに強くなるまでは。
「彼女はどうだい?」
「え?」
すっと笑みを消して見上げる。
丸い縁のある眼鏡の奥で彼がどんな目をしているのかは分からない。
微笑みながら怒る術を知る大人のまえでは兵部はいまだ幼い子供でしかない。
「彼女は優秀だが少し研究熱心すぎるところがあってね。君たち能力者に失礼な言動をとることもあるかもしれないが悪気はない。許してやってくれ」
「……いえ、そんなことは」
上官が部下に言うセリフではない。
だがそれよりも、わざわざ隊長が自分に対してそんなことを言ってきたことに驚いた。
(何か勘づかれた?)
ぼんやりと考え込む部下に対し、隊長はわずかに腰をかがめて囁く。
「聞いたよ」
「え?」
ぎょっとして目を見開く兵部に隊長が笑みを浮かべた。
「君もまだまだ子供だね。僕と彼女のことを勘違いしてるんじゃないかな?」
「何の話ですか?」
努めて感情をシャットアウトするように冷静な顔をしてみせたが、きっとそんな内心の揺るぎなど隊長には筒抜けなのだろう。
「彼女は学生の頃から僕に好意を持っていてね。卒業後軍の研究所の方へ進んだにも関わらずこんな最前線まで追いかけてきた。困ったね」
「困ってるんですか?」
少し意地の悪い質問だったか、と一瞬思ったが、この男がそんなことくらいで怒るはずはないことは知っていたため思い切って聞いてみた。
予想通り、隊長は少し困惑したような笑みを浮かべただけで彼を叱ろうとはしなかった。
「彼女に恋愛感情は抱いていないよ。嫌いではないけれど少し重いね」
「思い?ああ、重たい、ですか?」
よく分からない。いつもなら、兵部の年齢に合わせて(それでも同年齢の子供よりはよほど大人びてはいるのだけれど)分かりやすく話をしてくれる。
それが、今日に限って何だか端的で抽象的だ。
首を小さく傾げる兵部に隊長は、さて、と呟いて何事もなかったかのように背筋を伸ばした。
「兵部少尉」
「はいっ」
世間話の時間は終わったという合図なのだろう。
兵部も表情を引き締めて敬礼した。
「ちょっと僕につきあってくれないか」
「……はい?」
訓練ですか、と尋ねる少年に、隊長は彼の背後、ずっと遠くでこちらの様子を伺っているのだろう女をちらりと見て帽子のつばに触れた。
くすんだ緋色が一瞬雲からのぞいた太陽に照らされ、帽用星章がきらりと光る。
「ふたりで内緒の遊びをしよう」
秘密訓練だろうか。
兵部は副隊長の方を見ないようにしながら不二子の姿を探した。
宇津美と一緒に図書館へ行くと言っていたがあれからだいぶ時間がたっている。
弟を探して表へ顔を出しに来てもよさそうなのに。
「ああ、蕾見君たちには書庫の整理を手伝ってもらっているんだよ。ちゃんと俸給は出すよって言ったら喜んじゃってね。あの子たち本好きだからね」
まるで兵部の胸中を見透かしたように言う。
彼に超常能力はないはずなのに、たまにこうして心の中をのぞかれているような気がする。
そんなに自分は考えていることが顔に出やすいだろうか。
「君ももう小さな子供ではないのだから、義姉に秘密のひとつやふたつ持ったとしても何もおかしなことはない」
「はい……」
さあ、と差し出された手をためらいがちに掴んで、広い背中についていく。
どこへ行くのだろう、と考える間もなく、兵部は隊長が導くまま彼の私室へと招き入れられた。
執務用ではない、完全なプライベート空間だ。
入るのは初めてではないが、これまでは全て任務や訓練終了後の自由な時間だった。
今は個人で訓練をしたり言いつけられた雑事を済ませるいわゆる仕事中である。
何か失敗をしたのだろうか、と不安げにたたずむ少年を振り返り、隊長は穏やかな笑みを浮かべて椅子へ座るように促した。
「あの……」
僕何かしましたか、と困惑した表情の兵部に、隊長はデスクの前に座って組んだ手に顎を乗せると眼鏡の奥の目を細めた。
「君に少し協力してほしいことがあるんだ」
「はい……?」
自分にできることなら何でも、と、兵部はうなずく。
曖昧な返事になったのは、何故改まってそんな前置きを言う必要があるのだろうか疑問に思ったからだ。
それがたとえ理不尽な命令であったとしても、彼の言うことは絶対だし決して間違いはないのだ。
そのときは不審に思っても、結果言う通りにして良かった例ならいくらでもある。
所詮自分はまだ子供で、大人の考えることはずっとずっと深いのだから。
「ただ君には一芝居うってもらわなくてはならない。いや、二芝居かな」
「芝居、ですか?どういう意味でしょうか」
「うん」
ぴんと背筋を伸ばして座るまだ幼い部下に、男はためらいもなく言い放った。
「彼女を遠いところへやってしまいたい」
引っ越し準備にかかりきりになるのでしばらく更新できません。
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