驚いた表情をあからさまに浮かべる年若い少年兵に、彼女は困ったような、魅力的な苦笑いを唇に浮かべた。
慌てた不二子が先ほどよりも強めに脇腹を肘でつついてくる。兵部ははっとして敬礼をした。
申し訳ありません、と謝罪をするも、何が、と聞かれれば答えようがない。
まさか新しい副隊長だと紹介された人物が女だからびっくりしました、なんて言えるわけがない。
「彼女は学生時代の私の後輩でね。かの最高学府を首席で卒業したエリートだ。超常能力者ではないが私と同じように君たちを差別したり嫌ったりはしていない。ただ純粋に興味がある、と言っておこう」
興味、という言葉に顔を上げた。それがどのような意味を持つのか、聞かなくても分かる。
つまりは研究対象としての興味だろう。
なるほど言われれば、彼女は軍服よりも白衣の方が似合いそうな鋭利な美貌を持っている。
だが顔立ちは穏やかで、男女ともに好感をもたれるだろう容姿であった。近所の優しいお姉さん、と言った方が分かりやすいだろう。
とても軍人には見えない。
「はじめまして、よろしくね」
挨拶の言葉も堅苦しいものはまるでなく、気軽だった。
あまりかしこまったことは嫌いなのかもしれない。不二子とは気が合うだろう。
隣をちらりと見ると、思ったとおり不二子は目を輝かせて年上の友人になるのだろう彼女を見詰めている。
兵部は姉と、新しい上官を交互に見た後隊長に目をやった。彼はにこにこ愛想のよい笑みを浮かべながら後輩を眺めている。
(あれ?)
じわりと胸が痛くなるのを感じて、兵部は無意識のうちに胸元を掴んだ。
(なんだろう)
初めて見る隊長の顔。知らない女の笑顔。打ち解けるのに時間はかからないであろう姉。
戦時下とは思えない優しい空気に満たされているというのに。
よく分からない感情がこみあげるのに戸惑いながら、兵部は部屋を辞去したのだった。
静まり返った無人の廊下を歩きながら兵部は考える。
さて、あの女に対する自分の評価は?
親しみやすそうだ。
最初に抱いたような不信感は消えつつある。やはり、隊長の古い知り合いということはそれなりに付き合いがあるというわけで、きっと信頼できる人物なのだろう。
それなのにどこか釈然としない。
「なんだろう、これ。僕あの人のこと嫌いなのかな?」
人を外見や第一印象で判断してはいけない。そんなことは分かっている。
しかし、人間の感情というのは理屈のみで構成されているわけではない。
ぱっと見てすぐ何の理由もないのに嫌悪を抱くことだってあるし、好きだけどどうしても仲良くなれない、といった複雑な心境になることだってある。
兵部の、彼女に対する印象がそれだった。
いい人そうだけれど好きじゃない。どちらかと言えば嫌いなタイプだ。
理由は?そんなもの存在しない。第一印象とはそういうものである。
そしてその印象を覆すのはなかなか難しい。
「ちょっと、京介!」
軽い足音が聞こえて振り返ると不二子が走ってくるところだった。
まだしばらく出てこないだろうと思っていたので少しびっくりする。
「何で先に帰るのよ」
「別に……。不二子さんこそ、副隊長ともっとしゃべってたいんじゃないの?」
「そうだけど。何か、ふたりで話がしたそうだったから遠慮したのよ」
「え?」
「……なに?」
「ううん、別に」
曖昧に言葉を濁して首をふる。
不二子は怪訝そうにまじまじと兵部を見詰めていたが、やがて興味を失ったようにふいと目をそらせた。
そして誰もいないのにも関わらず、そっと近寄って兵部の耳元に囁いた。
「ねえ、あのふたり怪しいわよね?」
「どういう意味?」
「もう、鈍いんだから」
拗ねたように唇を尖らせる。
不二子の言いたいことは何となく察知したが、兵部はわざと首をかしげて見せた。
「なにさ」
「本当、あんたっていつまでもお子さまね。隊長と副隊長。あのふたりきっと男女の関係ね!間違いないわ」
「……男女の関係って変な言い方だなあ。つまり恋人同士ってこと?そんな感じじゃなかったよ。先輩と後輩だろ?」
「だからあんたはお子さまだって言うの。隊長があの人を見る目がすごく優しかったもの」
隊長はいつも優しい、と反論しようとして、不二子の真剣な様子に気押されついうなずいた。
不二子が何故そんなに真剣なのか兵部には理解できなかったが、姉は自分のことのように、うんうん悩みだした。
「ねえ、これって職場恋愛よね?いいのかしら」
「知らないよそんなの」
「あら、気にならない?これからずっと一緒にいるのよあのふたり。軍規ではどうなっていたかしら」
「だから知らないって!」
声を荒げて、自分で驚いて息を吸った。不二子も目を丸くして沈黙する。
「京介?何怒ってるよ」
「別に怒ってないよ」
「嘘。わたくしを騙せると思ってるの?」
ああもう。
兵部は胸の中で苛々と嘆息した。
こうなると姉は引き下がらない。
黙っていてほしい時に限って突っ込んでくるし、逆に話をしたいときに話しかけると怒られる。
いつも振りまわされっぱなしで、そんな姉のことは嫌いじゃないがたまにとても鬱陶しいと思ってしまうのだ。
兵部は無理に笑顔を作ると、ごめん、と呟いた。
「僕にはそういうの、よく分からないから」
それだけ言うときびすを返し返事を待たずにずんずんと歩いて行く。
自分の部屋の前で一瞬立ち止まりドアノブを握ったが、不二子が追いかけてくる様子はなかった。
怒らせてしまっただろうか。
だが今は彼女のテンションに付き合える自信はない。
深い息を吐いてドアノブをまわし自室へ入る。
電気もつけずに勘を頼りに三歩歩いて、ベッドに倒れこんだ。
この気持ちは何だろう。
その正体を兵部はなんとなくわかっていたが、それを認めるのが恥ずかしかった。
子供っぽい、実にくだらない嫉妬だ。
それと、最も信頼している大好きな上官の、人間臭い生々しさを突き付けられた気持ちの悪さ。
隊長も恋をしたり人を愛したりするのだろうか。
知りたくないものまで垣間見てしまったようでひどく気分が悪かった。
あの人はいつだって優しい。
あの人はいつだって正しい。
あの人はいつだって、
「ああ、でも普通の人なんだ」
そしてその優しも正しさも、別に兵部に対してのみ発揮されるわけではないのだ。
当然である。彼は部下に対して真面目に接してくれているだけで、何も特別な関係や感情があるわけではないのだから。
大勢のうちのひとり。
当たり前のことだ。
もう寝てしまおう、と布団を頭からかぶって、外界の音をシャットダウンした。
離れた隊長の部屋から女と話している声が聞こえる気がしてぎゅっと両手で耳を塞ぐ。
別に僕だけのものじゃない。
兵部はただ、自分だけを見てくれる、自分だけの愛すべき人が現れるのを待っていた。
不二子は違う。彼女はそういう存在ではない。
では隊長はどうか。心のどこかで、自分にだけ一番優しい、と驕ってはいなかっただろうか。
そうではないと当然の現実を突き付けられた気がしてそれが癪なのだ。
自分は今、幼い子供のように拗ねているのだと理解した。
甘える相手を欲しがる年齢ではない。
そもそも子供だからと誰かに甘えることが許される立場にもない。
どれほど時間がたっただろうか。
布団の中でうとうとしていた兵部だったが、ふいに何の予兆もなく目が覚めた。
もう朝だろうか、と枕元の時計を見るがまだ横になってから二時間もたっていなかった。
トイレに行きたいわけでもなければ夢を見ていたわけでもない。
一度覚醒した脳は再び眠ろうとする体に反して冴え冴えと周囲の気配を読み取った。
部屋の扉の外に誰かいる。
兵部は音を立てないように細心の注意を払いながら、そっとベッドから足をおろした。
ひんやりとした床が足の裏から頭のてっぺんまで一気に覚醒を促す。
砂でざらついたそこはろくに掃除もされていない。
どうせ寝るだけのためにあてがわれた部屋だ。
息を殺してそっと扉に近づき、すぐ横の壁に身を寄せる。
このときすでに兵部は外にいるのが誰なのか、何となく察していた。
「隊長?」
小さな声で尋ねる。
それはそこそこ厚みのある扉を超える音ぎりぎりのラインだったが、確かに外で何かが身じろぎしたような音がした。
聞こえないはずの息遣いが聞こえる。
庭の虫の音や風が葉を揺らす以上の存在感。
そこにあるのは先ほど感じた生々しさとも表現できる人間の血の温かさ。
「隊長、そこにいるんですか?」
「兵部少尉」
その意外な声に、兵部ははっと息を飲んで立ちすくんだ。
PR