昔からひとりが楽だった。
決して人間嫌い、などと言うわけではないけれど、他人が煩わしいのは事実だ。
何をしているの、昨日何をしていたの、何を食べているの、ねえこれどう思う?
疑問とそれに返答することはコミュニケーションの基礎である。同時に他人との関わりを完全に断ち切って現代を生きることは難しい。否、不可能だと言ってもいい。
それでも元就は家族以外の人間と接触するのが嫌だった。
面倒だ。
人の感情の機微にいちいち振り回されるのも、他人のせいで今日はこう、と決めた計画を崩されて、なおも笑顔で「いいよ」などと苛立ちを隠すのも。
そうしていつしか彼は上手く人を避けるようになった。
クラスメートや教師、近所の人、親や兄の身近な人々。彼らとは最低限、礼儀を踏まえた関係のみを築いておけばいい。
遊ぼう、と誘われて三回に一回は仕方なく乗った。
何故なら、いじめや疎外の対象にされるのはさらなる面倒を増やすからだ。分かりやすい例で言えば、「はい、じゃあ二人組を作ってー」というアレである。ひとり取り残されるのはみじめだし、寂しい。
寂しい、という感情は知っている。
だから、寂しくならないよう、仲間外れにされないよう、かつ、煩わしいことのないよう。非常に上手く世間を流れるように生きている。
それが毛利元就という男だった。
「あの」
思わず元就は声を上げて立ち止まった。
普段なら御老人にバスで席を譲るときだって無言で立ち上がるし、横断歩道でおろおろしている御老人にはまだ出会ったことがないので、見知らぬ人間に自分から声をかける、という経験は皆無に等しい。
これがいわゆる初体験ってやつか。ふむ、我もひとつおとなになった。
そんな冷静なことをちょっぴり挙動不審のエッセンスを織り交ぜながら考えていると、声をかけられた当人がぴくりと肩を揺らして振り向いた。
「・・・・・・何か用かな若いの」
「・・・・・・それ」
それ、と指をさすのは、男が両手にぶら下げた大きな荷物である。
「ああ、いや別にそれを寄こせなどとは言っておらぬ」
「いや誰もそんな物騒な発想はせなんだが」
「そうか」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
見るからに怪しげな男だった。
背丈は同じくらいか少し元就より高いくらい。ただ少々猫背ぎみなのでよくは分からない。春だと言うのに焦げ茶のぶ厚いコートを着て、よれよれの帽子で顔を隠し気味なのは顔全体に包帯が巻かれているのが理由だろうか。間からのぞく目はどこまでも暗く、子供が見ればぎょっとして泣きだすかもしれない。一見不審者のようだが、彼の発した声は意外と渋くて穏やかだったし、何よりよろよろしながら大きなボストンバックを抱えるのを見れば思わず声もかけたくなるというものだ。
「ぬしは近所の子か」
「・・・・・・まあ、それなりに」
ふたりの隣りを引越しトラックが駆け抜けて行った。顔を上げると、トラックの行き先を見てああ乗せてもらえば良かった、と思ったがもう遅い。どうせ近所だし。
「実は久々に旅行から戻るところでな。大量の土産やら何やらを買ったのは良いが、ほれ見てのとおり我はこの体よ。どうにも足がよろけるわ」
「タクシーを呼ぶとか」
「所持金が尽きた」
「・・・・・・・・迎えは」
「学校だ」
おや、子供がいるのか。
意外そうに目を見開いて、元就は手を差し出す。
「持とう」
白い手をじっと見つめ、男は何事か考えていたが、やがて嬉しそうにヒッヒッと笑うとバッグを渡した。
「やれ、良い子よな」
「子供ではない」
もう大学生だぞ、と若干ぷんぷんしながら、のんびり歩く男の隣りに並んで歩調を合わせる。
「家は遠いのか」
「そうでもない」
このまま遅くなるのであれば、一度まつに連絡を入れておくべきだろう。
引っ越し当日に荷物だけ届いて本人が到着しないのはさすがに失礼すぎる。
そう思いつつ、何時何分になったら連絡を入れよう、などと考えていると何だか見慣れた景色が目の前に広がっていた。
ぴたり、と足を止める男が大きなその屋敷を仰ぐ。
「久しぶりよの」
「・・・・ちょっと待て」
「ん?」
大きく開かれた門の内側にはさきほど見た引越しトラック。車体にはでかでかとウサギさんマークだ。鉢巻きをしめて二本の足で立っている姿はとてもクールでキュートでシュールだった。目が笑ってない。怖い。
「おや新しい入居者が来たようだ」
「我だ」
「ん?」
僅かばかりの道中に気付いたことがある。
どうやら、ふたりきりではなかなか話が進まないようだ。突っ込み役が必要らしい。男はともかく元就の言葉が足りないのである。会話のキャッチボールをしようとして少々慣れぬコミュニケーションに動揺するせいだろうか。かといってどちらも困った、などと微塵も思わない程度には、まだ、相当の距離があるのだが。
「我がこのばさら荘の新しい入居者だ。毛利元就、四月から大学生になる」
「おおそれはメデタキナ。我はここの三階に住む大谷だ。同居人は今学校に行っておる高校生の男の子でな。年も近いゆえ、仲良くすると良かろう」
「・・・ずいぶん大きな子供がいるのだな、いや、別に詮索する気はない、いくつで子を作ったのかなど特に興味はない。ああ、いやいやよもや引き取った血の繋がらぬ・・・否、無礼な口を聞いたすまない。そなたが意外に年を食っているのだろう」
「あ?」
すまない、の後の暴言に大谷もびっくりである。
「あら、おふたりともご一緒でしたか」
冷え冷えとした空気が一瞬にして柔らかくなった。
「ねっみぃ・・・」
くぁあ、と大きなあくびをしながら、両腕に紙袋を抱えた元親はばさら荘へと向かっていた。引越しの準備もほとんど終わりあとは自分と、最低限生活に必要なので最後まで残っておいた電化製品などを移動すれば完了である。
四月を目前に控え、他にも新しい入居者が引越しにおおわらわだ。複数が重なると管理するまつたちも大変なので、日にちはずらしてある。今日はあの、毛利元就の入居日だ。すでにばさら荘の新たな一員としてちょこちょこ顔を出していた元親も、今夜は彼の新生活をのぞきに行くつもりだ。ただしまだ彼とまとも話したことは一度もない。元就は元親と違って、引っ越し前にあまりばさら荘へ顔を出すことはなかった。
「照れ屋なんだな!」
愛想はなさそうだが可愛いところあるじゃねーか、と勝手なことを言いながら足取りは軽い。
うきうきしながら歩いていると、背後からどたどたと走る足音がいくつも続いた。同時に怒鳴り声が響き渡る。
「くそ!これでは間に合わんではないか!!」
「お、落ちつくでござるよ三成殿!」
「あーめんどくせぇなんで俺まで」
一瞬のうちに目の前を通過していくのはやたら細長い少年だ。元親に似た銀色の髪は不思議な形をしている。人間にトサカが生えている。やけにおもしろい。アレに似た鳥をテレビで見たことがあるが名前が思い出せなかった。彼に続いたのは茶色の長い髪をひとつに縛り、ひらひらと赤い鉢巻きが翻る元気そうな少年だ。語尾にござるとは何とも時代錯誤でござる。最後にふたりを心底嫌そうに追いかけるのは黒の眼帯で右目を隠した少年だった。三人とも黒の学ランをそれぞれ適当に着こなしている。いまどきの若者、といった風だが変わっているのも事実だ。彼らは見る間に遠く走り去ってしまった。
「若者は元気だねぇ」
年寄りじみたことを呟いて、嘆息する。かつては俺もあんな風にピチピチでノリノリでキャッキャウフフしてたんだよ。年は取りたくないものだねえ、ばあさんや。
「ばあさんて誰だよ」
脳内で呟く自分に突っ込んでおいて、三人の若者を追いかけるように、元親もまた足を速めたのだった。